「人権が尊重される社会づくりのために」 |
皆さん今日は。ただいまご紹介いただきました中川と申します。本日は福山市の皆さん方と一緒に人権・同和問題について考える機会を与えてくださいまして,大変嬉しく思っております。これまで私が見聞きしてきましたこと,また,日頃から考えていますことを申し上げながら,皆さんと一緒に同和問題について考えてまいりたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。
はじめに7月の豪雨災害では,本市でも大きな被害が出たと聞いております。被害に遭われました皆様方に,心からお見舞申し上げます。西日本豪雨においては,本市で,また広島県,西日本全体において,さまざまなドラマがあったと思います。日頃から学んでおられます自他の「人権の大切さ」が表出した行動をとられ、あの豪雨の中で、濁流が押し寄せる中で互いに助け合ってこられたことと思います。
2年前の4月14日午後9時半頃、突然,震度7の大地震が熊本県を襲いました。皆さん方も新聞,テレビなどの報道でご存知のことと思います。熊本の場合は,4月14日の午後9時半過ぎの地震が前震,2日後の16日の深夜1時過ぎが本震,震度7の地震がわずか2日間で2度も起きました。震度5以上が10回,震度6弱が2回,震度6強が3回,大地が揺れ続けていたと言っても過言ではない状況でした。 私は14日の前震の時には,風呂に入っていました。何と表現していいか分かりませんが,風呂桶を重機でガタガタと揺り動かされるような感じでした。もうその時の恐怖は,言葉では言い表せません。どの位の揺れだったかを,2つ3つ例をあげて紹介します。
私の友人の一人が,手紙を出すために県道を横断しようとした時、地震(前震)が起きたそうです。その時のことを友人は,「柔道技の足払いを掛けられて,背中を後ろからドーンと押されるような感じで県道に倒れた。」と言っていました。益城町の飯野小学校ではグランドピアノがひっくり返っていました。グランドピアノは、3本の足で支えられ安定感のあるピアノですよね。そのピアノが横転したのです。益城町役場駐車場に避難していた人は、16日の本震時,「役場庁舎がドーンという音とともに浮き上がった」と言っていました。幼友だちは,余震が続き家では寝ることができなく,軽ワゴン車内にいました。本震時、縦揺れに続き横揺れがひどくて車が倒れはしないかと思ったと言っていました。
私の家はおかげさまで,一部損壊で済んだのですが,壁には亀裂が入り、窓は開かないような状況でした。
知人の話です。前震の時、近所の方が家を飛び出して,地区の空き地に避難し、ビニルシートを敷いて一夜を明かそうとしたところ,液状化現象が起き,下から水が湧き出てビニルシートが水浸しになったそうです。高齢の方が2組おられたそうです。この方たちをここには寝かせておけないと,みんなで近くの公園に避難しました。公園には夜露を避けるようなものはなく、一夜を過ごすことができません。大きなワゴン車を持っている人が「この車の中で,一夜を過ごしてください」と避難所として車を提供したそうです。お互いの助け合いによって,高齢の方たちはその晩を過ごされたということでした。
私は益城町で,放課後子ども教室のコーディネーターをしております。その放課後子ども教室で,算盤を教えている方も被災されました。家が全壊したため,益城町の広安小学校体育館に避難していました。その人は、この先どうやって生きていったらいいのだろう」と不安がいっぱいで下を向いて避難所内を歩いていたそうです。その時、後ろから「算盤の先生、大丈夫でしたか?」と子どもが声をかけてきたそうです。その子どもの声を聞いて,ハッと我に返って「前を向いて生きていかねばいけないと思った。」と言っていました。
大きな地震があった後だからもう大きな揺れはなかろうと,高齢のご夫婦が避難所には行かずに自宅で寝ていた16日深夜、本震に遭われ,家が倒壊してしまいました。救出された時、男性は連れ合いさんを守るように,抱きかかえるようにして亡くなっておられたそうです。奥さんは「夫は私をかばってくれて,私の身代わりになってあの世に逝きました。私は夫の分まで残された人生を生きていきます。」と言っておられました。
前震は,午後9時半過ぎだったので,日常の生活でした。スーパーで買い物をしていた人の話です。スーパーが倒壊しはしないかと思うほど揺れ動き、陳列棚からはモノが落下散乱し,買い物客はパニックを起こしそうになったそうです。揺れが収まった時、店員さんが「けがはありませんでしたか。外に急いで避難してください」,と冷静にお客さんを誘導してくれたそうです。店員さんの沈着冷静な判断に「日頃の避難訓練の大切さを痛感しました」と言っていました。
これはあってはならないことですが,地震後に,流言飛語(以下,デマ)が飛び交いました。一番酷かったのは,熊本には動物園があります。その「動物園のライオンが逃げた」というデマをSNSで流し,地震の恐怖に加え、猛獣が逃げたという恐怖に陥れたことでした。このデマを発信した人は,偽計業務妨害の疑いで逮捕されました。デマを書き込んだとして逮捕されたのは全国で初めてだったそうです。デマというのは東日本大震災の時にもいっぱいありました。それが風評被害となって,今でも続いています。
人権問題,同和問題も流言飛語から生じた面があると思います。まちがった情報が流れ、いつの間にかそれが真実であるかのような思い違いをした結果が、人権問題が生じた要因の一つでもあるように思います。
私はこの熊本地震から3つのことを学びました。
1つめは,自助,共助の精神を日頃からもっていることが,いざという時に役立つこと。自分の人権と共に,他の人の人権を大切にしながら皆で助け合っていこうという自助,共助の精神こそが人権尊重社会のもとになっていること。
2つめは,避難訓練,防災訓練,減災のための訓練をしています。その防災,減災の訓練は,最悪の事態を想定して最小の被災にくい止める訓練をしなければならないということ。
3つめは,デマに惑わされることなく,何が真実かをきちっと自分で判断・行動できる力を日頃から身につけておくこと。
この3つを熊本地震から学びました。おそらく,この福山市でも7月の豪雨災害でこのようなことを学ばれたことと思います。今,台風21号が日本に接近中です。いつ,どこで大きな災害が起こるか分かりません。日頃から「人権を大切にするまちづくり」を進めることが,非常に大切になってくるのではないかと思います。これを,あちらこちらの人権問題講演会でお伝えしているところです。
ところで,今,「人権」という言葉を使いました。皆さん方に「人権とは何ですか」とお聞きするのは,非常に失礼なことですが,今あなたはどんな権利を持っていますか。レジュメに「こんな権利がある」という例を2つ,3つ書いてもらえますか?
こんな権利があると,たくさんのことをお書きだと思います。本来ならば,皆様方にご発表頂きたいのですが,時間がございません。私がいくつかお示しいたします。例えば,働く権利,教育を受ける権利,あるいは選挙に参加する権利,結婚する権利,ご飯を食べる権利,寝る権利などいろいろな権利があります。これらの権利を総称して人権といいます。この自分が持っている権利を行使したり主張するがために,他の人の権利を侵していることはないでしょうか?
レジュメには,「車の運転」「ブログなどの書き込み」「飲酒・喫煙」などの行動が「権利」として使われているのはどういう場面や状況の時か、わがまままたは自分勝手になってしまっているのはどういう場面や状況のときか考えてみましょうと記していますが,本日は時間の都合で割愛します。後刻、ご家族と一緒に話し合いをしていただけたらと思います。
皆さんの中で今,煙草をお吸いの方はいらっしゃいますか?(数名挙手)ありがとうございます。何人かいらっしゃいますね。私も若い頃は,よく煙草を吸っていました。私が煙草をおいしいと思っていたのは食後の一服です。食後の一服がおいしくて,家で朝ご飯や夕ご飯を食べたあと,街のレストランや食堂で食事した時も,周りに誰がいようとお構いなしに煙草を吸っていました。私が吸うたばこの煙を不快に思っている人がいるなど全然考えていませんでした。周りの人に不快な思いをさせ,たくさんの人の人権を侵害してきたと思います。健康被害や禁煙権を啓発した結果、今では,かっての私のように周りのことを考えないでたばこを吸う人はいませんね。
熊本地震で「ライオン逃げた」とSNSに投稿があった例をお話ししましたが、自己の表現の自由が他の人を不安に陥れるようなことがあってはなりません。これなど人権侵害の最たるものですよね。
自分の人権、他の人の人権も同じように守っていく。これを「人権の共存」と言いますね。この「人権共存社会」を日本でも,世界でもめざしています。本市でも,「人権文化の豊かなまちづくりをしましょう」という大きなスローガンを掲げています。私の人権,あなたの人権を大切にして,互いに自分の人権を守っていきましょうということだと思います。人権共存社会をつくるために、皆さん方は人権啓発活動をそれぞれの職場や地域でおこなっていらっしゃいます。
今日は人権問題、中でも同和問題を中心にして,これから人権問題について考えてみたいと思います。
4コマ漫画を示しています。ご覧ください。この4コマ漫画は,熊本県人権センターが作ったものです。漫画(本当に大切なことを見失わないで!)を読んでみますます。・・・
この4コマ漫画の中に,同和問題が今もなお厳存する要因が含まれています。ここに「世間体」という言葉が使われていますが、福山市でも,「世間体」という言葉を聞かれることがありますか? 何人かの方が頷かれました。世間体という言葉,世間体という意識が,同和問題を今日までずっと未解決のままにしてきた一番の元だと思います。
これから同和問題について、レジュメに示していますことを中心に考えてみたいと思います。
ここでは,熊本県人権同和政策課が編集した「人権研修テキスト 同和問題(部落差別)編」の資料から抜粋したものを中心に説明したいと思います。
さかのぼると、古代以降差別された人はいましたが,平安時代にはなくなっております。中世においては法律や制度として固定されたものはではありませんでした。
同和地区は,いつごろ,どのようなねらいでつくられたのでしょうか?・・・通説では,封建社会が確立していく過程の中で,幕藩体制の強化・維持を目的に当時の社会の中にあった偏見を利用して,政治的・人為的につくられた身分制度に由来していると言われています。人の死,牛馬の死,あるいは怪我をしたときに出てくる血,こういうことを科学的に立証できるような,世の中ではありませんでした。合理的に考えれば全く根拠のない考え方ですが、死とか,怪我をしたときの血とかに関して恐れ,あるいは避けるものがあり,「ケガレ」という考え方が広まりました。「死や血などに触れると触れた人も穢れる」という考え方が形づくられ、やがて「人や動物の死や血に触れる仕事に従事する人々は,その穢れが感染し,穢れた存在である」という誤った考え方が社会の中に広まっていきました。これが当時の偏見です。この考え方が,特定の仕事や役割を担った人々に対する偏見を形づくり,社会的に差別された身分を生み出すことにもつながりました。しかし、この時代の人々の身分は世襲的ではなく、流動的で移動の自由や職業の自由が奪われたものではありませんでした。
豊臣政権では、より強固な支配体制を築くために検知や刀狩を全国にわたって行い,武士と農民などとの違いをはっきりさせ,1959年に身分統制令を出して身分制度の基礎を固めました。
江戸時代では、徳川幕府によって,固定された身分制度が確立・強化されていきました。全人口の7%程度にすぎない武士階級による幕藩体制を確かなものにするために,身分制度を強化することによって多くの民衆を分裂させ支配してきました。
その当時の社会は、様々な身分の人々によって構成されていました。身分は自由に変えることはできず,当時の社会にあった偏見や穢れ意識等の人々の誤った意識を利用し,武士や百姓,町人とは区別され被差別身分とされた人々もいました。この身分には,雑役的労働者,雑芸能者,戦国期に敗北して社会的脱落者となった浪人,土地を失った農民,没落した町人などのさまざまな階層の一部の人々が,強制的に組み入れられたと考えられています。これらの人々は,幕府によって住む場所を生活条件の悪い場所に限定されたり,服装やほかの身分の人々との交際を制限されたりするなど,差別的な扱いをされました。
しかし,厳しく差別されながらも農業を営んで年貢を納めたり,優れた技術で人々の生活に必要な皮革用具などを作ったり,治安を担ったりして社会を支えてきました。また,古くから伝わる芸能を盛んにし,後の文化にも大きな影響を与えてきました。
一方で,民衆の生活が苦しくなり,幕藩体制に対する不満や不安が大きくなればなるほど,これらの人々に対する差別が強められていったという経緯もあります。例えば,警備や刑の執行にかかわる役割は,一揆の探索や鎮圧に利用され反感の対象となるように仕組まれました。
現在,同和地区と呼ばれる地区の多くは,近世初期に封建社会が確立されていく過程で成立したと言われており,そこで生活する人々は約300年という長い間,差別をされながら生活することを強いられてきました。
概観しましたように差別はつくられた差別です。そのつくられた差別ということを正しく理解しないままに,まちがった認識が人から人へと伝えられ、それが同和地区に対する偏見をうみ,今もなお,同和問題が残っているのです。その同和問題とは何かを,1965年(昭和40年)に出されました同和対策審議会答申には次のように書かれています。
「同和問題とは,日本社会の歴史的発展過程において形成された身分階層構造に基づく差別により,日本国民の一部の集団が経済的・社会的・文化的に低位の状態に置かれ,現代社会においても,なお著しく基本的人権が侵害され,特に,近代社会の原理として何人にも保障されている市民的権利と自由を完全に保証されていないという,もっとも深刻にして重大な社会問題である。」同和対策審議会答申(1965)より引用 |
本人権交流センター玄関前に,「水平社宣言」の碑がございます。水平社宣言の中に,『人の世に熱あれ,人間に光あれ』があります。1922年(大正11年)全国水平社創立大会が京都の岡崎公会堂で行われ,人の世に熱あれ、人間に光あれと結んだ全国水平社結成の宣言が採択され、すべての人々の差別からの解放が宣言されました。戦後,1946年(昭和21年)に日本国憲法が制定されました。日本国憲法第14条には「すべて国民は,法の下に平等であって,人種,信条,性別,社会的身分又は門地により,政治的,社会的,経済的又は社会的関係において,差別されない」と明記されています。ですから,この日本国憲法ができた時点で部落問題はなくなっているはずなのです。にもかかわらず,今も不合理な部落問題が厳存しています。
ご挨拶の中で,部落差別解消推進法についてお話がありました。この法律の第一条(目的)には「現在もなお部落差別が存在するとともに,情報化の進展に伴って部落差別に関する状況の変化が生じていることを踏まえ,全ての国民に基本的人権の享有を保障する日本国憲法の理念にのっとり,部落差別は許されないものであるとの認識の下にこれを解消することが重要な課題であることに鑑み,部落差別の解消に関し,基本理念を定め,並びに国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに,相談体制の充実等について定めることにより,部落差別の解消を推進し,もって部落差別のない社会を実現することを目的とする。」と明記されています。(「部落差別解消推進法」の原文引用)
1946年の日本国憲法制定後も部落問題がなくならず,同和問題が厳存していることについて,一刻も早い同和問題の解決にむけて出された同和対策審議会答申(以下,同対審答申)には「心理的差別」と「実態的差別」という記載があります。これも皆さん方よくご存じだと思います。同対審答申を受けて,30年にわたって同和対策関連事業が行われました。住環境の整備等ある程度の改善は見られるようになりましたが,まだまだたくさんの差別問題があります。
差別問題で一番大きいのが,心理的差別です。どういう差別があるかと言えば,本市が2011年に市民調査をしておられます。その中の同和問題に関し,「現在,起きている差別について,どんなことがありますか?」の問いに対して,次のように答えている方がいらっしゃいました。
結婚問題について、13%の方が,差別があるのではないか。就職に際して,24.4%の方が,差別が起きているのではないか。
不動産売買に関しても,12.9%の方が,土地差別があるのではないかと回答しています。インターネット等での差別,これが4.4%。出身地とか居住地を聞かれたことがある人が6%。本市でも結婚問題や就職問題において,大きな問題が残っていると捉えている人が多いことがアンケート結果から推察できます。
先ほど見ていただきました4コマ漫画では,家庭に招かれた若者に「すてきな方ね」と言っているのに,「ところで,あの人はどこの人?」と出身地を聞く。これは,身元調査に当たりますよね。
50年以上も前の話ですが,私には結婚しようと思う女性がいました。今の連れ合いなのですが。彼女の家の様子を父が,調べていたことが分かったのです。当時私は,同和問題についても同和教育についても何にも知りませんでしたが、私が将来結婚しようと心に決めている人の出身地とか,家柄とか,彼女の父母の仕事を父が調べたということを知った時,私の人権,私の人間性,また彼女の人権や人間性を冒涜されたように感じ、強い憤りをおぼえました。
私は父に向って強い口調でこう言いました。「父ちゃんは何で,俺が将来結婚しようとしている人のことを調べるのか。俺のことを信用できないのか。彼女を信用できないのか」と。父は,黙って下を向いているばかりでした。何故身元調査をしたかについては,一言も語りませんでした。私が生まれて初めて,心底から湧き上がる憤りで父に猛烈に抗議したものですから,父も自分がしたことの重大性,息子や彼女を冒涜したと同じことをしたと感じたのだろうと思います。父はずっと下を向いておりました。その父の姿から「親父も自分はとんでもないことをしたということが分かったのだろう」と思って,そのままそっとしておきました。それから半年後,私たちが結婚する時には心から祝ってくれました。「有紀,あの時は悪かったね,ごめんね」と私に伝えようという父の気持ちが,ひしひしと伝わってきました。それで,私は「父ちゃん,俺は今日からこの人と頑張るから応援してほしい。」と言いました。
私の結婚時のことをお話ししましたが,身元調査の一番の問題はプライバシーを洗い出すことです。他人のプライバシーを人に何らかの形で知らせることは,酷い人権侵害だと思います。ましてや結婚問題になりますと,結婚をしようとする相手が同和地区の人か,そうでないかで、結婚に賛成か反対かを決定することは重大な人権侵害です。同和地区に生まれようがそこで生活していようが本人の責任とは何ら関係ないことですから。同和地区の人であれば反対すると回答した市民がまだ何%かいらっしゃることは、今後も啓発活動を進めていかねばならないことだと思います。
熊本県の実態調査結果からも家族や親戚の反対があれば結婚を認めないと回答した人が約5%います。どうして,同和地区の人との結婚に反対するのでしょうか。これは私の思いですが,自分の家族に同和地区の人がいると,自分も同和地区の人ではないかと思われる。自分も家族も差別を受けるかもしれない。そんなことは絶対あってはならない。こんな気持ちがあるからではないでしょうか?自分や家族も差別されるかもしれないと思う人は,その方に差別心があるからではなかろうかと思います。同和問題を正しく理解しておれば、こんなには思わないでしょう。身元調査,結婚問題,就職問題など同和問題の根幹に関わるものと思います。
これまで長年取り組んできた啓発活動の成果として,「結婚は本人の問題だから,もうそういうことは問わない」と、同和問題を正しく理解していらっしゃる方たちが50%~60%近くおられます。さらに親が,自分はどうかと思うが,「本人が結婚したいと言うから許す」という方たちを含めると80%~85%の方が本人の意思を尊重すると回答しておられます。
しかし,20%~30%の方は,「本当ならば結婚してほしくないがしようがない」という方もおられます。この方々が「人によってつくられた差別だからそんなのはおかしい」と,同和問題を正しく理解し、認識されることを私は望んでいます。課題は、どうしても反対するという方が1桁おられることです。そこに,啓発活動を進めていかねばならない大きな理由がある,と私は思っています。
そのほかにも,同和問題の差別事象があります。今,一番大きいのが,インターネット上の差別落書きです。私もインターネットを見ていますが,発信元がない、発信した人の名前が書いてないのです。だから,無責任なことが発信されているのです。
熊本地震の時に動物園からライオンが逃げたというのも,まさにその通りです。そのインターネットでは,紹介できないような,口にできないような文言がいっぱいあります。あるということは,それを見る人がいるということです。同和問題について,正しく理解することは非常に大切なことです。
もう一つ言われているのは,不動産関係で差別事象が起きていることです。本市ではどうか分かりませんが,市役所や役場に,「自分は○○に土地を購入して家を建てたいが,そこに同和地区があるか」と,問い合わせがあったということを聞いたことがあります。これも先ほど言いましたように,そこに住むと自分も将来差別されるかもしれない。そうはなりたくないと思っているからでしょう。その人は意識していないかもしれないけれど,その人に同和地区に対する偏見や差別心があるから,そういうことを尋ねるのです。日本からこのような差別がなくなるように,啓発活動を続けていかなければならないと思います。
皆さん方は,日頃から家族や職場や地域で同和問題を話題にして,同和問題解決の啓発活動を進めていらっしゃいます。同和問題解決のためには同和問題について正しく理解しなければなりませんが,同和問題についての理解違いがいくつかあります。
「寝た子を起こすな」という考えはその一つです。そっとしておけば,自然になくなるのではないか?私も同級生から何回も言われました。「有ちゃん,あんたはそう言うけどな,啓発すると知らない人まで知ってしまう。同和問題は知らないなら知らないままで済む。だから、同和問題は知らない人にまで教えなくてもよいのではないか。」と。私たちが,同和問題を知らないままでいると同和問題は自然と解決するでしょうか。知らないままでは,同和問題は解決しないことは歴史が証明しています。
1871年に「解放令」が出て、身分制度がなくなったのですから、同和問題は解決したはずなのです。1946年の日本国憲法ができた時,基本的人権(第14条)が国民皆に保障されたのだから,同和問題はなくなっているはずなのです。ですが,今でも同和問題が厳存しています。人々は知らないままでいるのではないのです。知らないままでいるのではなく、どこかで,どういう形かで同和問題を学んでいるのです。それも正しく学べばよいのですが、事実に基づかない情報に接して予断や偏見を持ったり、間違った理解をしていることが少なくないのです。
自分があまり知らないところに間違った情報が入りますと,それがあたかも真実であるかのように信じ,まちがった理解をしてしまうことがあります。その例が風評でしょ。原子力発電所の事故で、福島県の人たちが,日本のあちらこちらに避難されています。その避難先で,原発病が「うつる」から傍に来るなとか,福島県の米は汚染されているから食べるなとか、いっぱいあったでしょ。このように知らないところに間違った情報が入ると、間違った理解をし、それが間違った行動を起こすことになってしまうのです。だから事実を正しく学習して,正しく理解して,正しく判断し、相手の立場に立って行動する。こういった姿勢を私たちは持ちたいと思うのです。
同和地区の人にも問題があるのではないか,というような声もよく聞きました。先ほども言いましたように,被差別部落はつくられた差別です。同和地区の人にも問題があるというのは自分の差別心に気付かない人が言うことだと思います。
また,一カ所に住むから差別されるのだ。分散すれば,差別はされないのではないかという人がいます。これも皆さん方,十分ご存じの通りですね。身元調査で出身地を調べられていることが,今まで何回もございました。私たちは,日本国憲法によって居住の自由や移転の自由とか,基本的人権が保障されています。自分の差別意識をそのままにしておいて、住む場所を変え、分散することでは、同和問題の解決にはなりません。どこに住んでいても、全ての人が差別を受けることのない社会を作ることが何よりも大切ではないでしょうか。
理不尽で不合理な部落差別について,これはおかしいということを訴え続けてきた人がいます。その人は四国の方です。お名前は聞いておられると思います。「江口 イト」さんという方です。その方は約40年ばかりの間に日本全国3,000か所以上で,講演されたそうです。
その江口 イトさんの「同和問題の不合理さ、人の心のおかしさ」をズバリと指摘した詩があります。『人の値うち』という詩です。
人の値うち 江口 イト 何時かもんぺをはいて バスに乗ったら 隣座席の人は私を おばはんと呼んだ 戦時中よくはいたこの活動的なものを どうやらこの人は年寄りの着物と思っているらしい よそ行きの着物に羽織を着て 汽車に乗ったら 人 は私を奥さんと呼んだ どうやら人の値打ちは 着物で決まるらしい 講演がある 何々大学の先生だといえば 内容が悪くとも 人々は耳をすませて聴き 良かったという どうやら人の値打ちは 肩書きで決まるらしい 名もない人の講演には 人々はそわそわして帰りを急ぐ どうやら人の値打ちは 学歴で決まるらしい 立派な家の嫁さんが 部落にお嫁に来る でも産まれた子どもはやっぱり 部落の子だと言われる どうやら人の値うちは 生まれた所によって決まるらしい 人々はいつの日 このあやまちに気付くであろうか |
もうこの詩ができてから数十年経っているのですが,今でもこの詩にうたわれているようなことがまだ残っています。江口さんはその他,いろんな詩を書いていらっしゃいます。
先日,江口 イトさんの娘さんの手記にであいました。その手記の中に,『受けて立つ差別』という詩が紹介してありました。読みます。
受けて立つ差別 江口 イト 何処へ行っても 何処まで行っても 追いかけてくる差別 もうこの差別から逃げることをやめ 振り返ってにっこりと迎えることに決めました この差別の不合理を 叫び続けて歩きたい 西に 東に 南に 北に 今日も 明日も 明後日も 差別がなくなるまで歩きたい |
こういった思いから,全国3,000か所以上で講演を続けてこられたのです。
お孫さんのことについての詩があります。私はこの詩を読むたびに心が痛みます。その詩,『招かれなかったお誕生会』をご覧ください。
招かれなかったお誕生会 江口 イト 孫は小学四年生 かわいい顔した女の子 仲良しA子ちゃんの誕生会 小さな胸にあれこれと 選んで買ったプレゼント 早く来てねと友の呼ぶ 電話の声を待ちました 夕日が山に沈んでも 電話の声はありません 孫はポツリと言いました きっと近所のお友達 大勢遊びに行ったので 茶わん足りずにAちゃんは 困って呼んでくれないかも 二,三日たった校庭で A子ちゃん家での誕生会 楽しかったと友人に 聞かされ孫はA子ちゃんに どうして呼んでくれないの 私はとても待ったのよ A子ちやんとても悲しい顔をして 私は誰より花織ちゃんを 呼びたく呼びたく思ったの けれども私の母ちゃんは 呼んではならぬと言ったのよ それで呼べずにごめんねと あやまる友のその顔を 見つめた孫の心には どんな思いがあったでしょう 私は孫に言いました お誕生会に招かれず さびしかっただろうねと 孫はあのねおばあちゃん A子ちゃんとても優しいの 私の大事なお友達 A子ちゃん悪くはないのよ お母さんが悪いのよ 大人ってみんな我ままよ 寂しく言った孫の瞳に 光る涙がありました どんなするどい刃物より 私の胸を刺しました |
私にも孫が3人いますが,孫がこんな状況になると思うと,胸が張り裂けそうになります。きっと,皆さんもそうだと思います。
私が熊本県で社会教育主事をしていた頃,同和地区の人と懇ろにさせていただいていました。その方は,私の手を握ってこんなことを言われました。「中川さん。あなたたち行政の手で、子や孫たちがワシのように差別を受けない世の中をつくってくださいよ。」と。
この江口 イトさんの「招かれなかったお誕生会」の気持ちと一つも変わらないと思います。イトさんの悲痛な思いを私たちは,子や孫に伝え、お孫さんのようなきつい思いをさせてはいけないと思います。ほんとに不合理で理不尽なことが,まだまだ現在もあるということです。
これまで私が話しましたようなことは,皆さんは何回もお聞きだと思います。また、皆さん方は周りの人々への啓発を続けていらっしゃいます。しかし、心理的差別はなかなかなくなりません。
「おそらく政治的な施策だけでは,なくならないだろう」と言う人もいらっしゃるようです。これは私たちの心の問題だからです。
では,私たちの心の問題とはどんな問題なのでしょう,少し考えてみたいと思います。レジュメの空いているところに,「魚の絵」を描いてみてください。
とても素晴らしい魚の絵を描いていただいています。私は魚の種類や大きさを問うてはいません。また,魚をきれいに描いているかどうかも問うてはいません。私が尋ねることに当てはまる方は,挙手していただけませんか?
皆さんが描かれている魚の頭は,どちらを向いていますか?
左を向いている魚を描いた方は?(大多数が挙手)
右を向いている魚の絵を描かれた方はおられますか? あっ,2人おられました。
ほとんどの方が左向きの魚を描かれました。どこの研修会でも,本日と同じように左向きの魚を描かれる方が大多数です。どうして,このように左向きの魚を描くのでしょうか?
私が,板前さんが多い研修会で話をした時,50人全員が左向きの魚の絵を描かれました。それで,私がどうして左向きに書かれましたかと尋ねたら,「あなたは何を言っているのか。昔から魚は左向きにすると決まっている」と,言われました。料理で出すお頭付きの魚はみな左向きでしょう。お頭付きの魚を右向きに出す方いらっしゃいますか?
5月5日の鯉幟の絵を思い出してみてください。あの鯉幟の絵もほとんど左向きでしょ。
家庭や図書館にある魚の図鑑を見てください。魚の図鑑にある絵や写真の8割から9割は,左向きです。
私たちはこのようにいつも左向きの魚に接しています。このことによって、空気を吸うがごとく自然に,「魚は左向き」が頭に刷り込まれているのです。「○○は○○」というように思い込むことを刷り込みと言いますね。このようにして刷り込まれた固定観念が絵に表れるのです。2人の方が右向きの魚を描いていらっしゃいます。素晴らしいと思います。自分のお考えで,右向きの魚を描いておられますから。
皆さんにもう少しお聞きします。「牛」の色を思い出してください。牛の色を3つ言います。「あか牛」,「黒牛」,「白黒のホルスタイン」。
「あか牛」を思い出す人は?「黒牛」?「白黒のホルスタイン」?
今,挙手した人は,「黒牛」と「白黒のホルスタイン」が半々ぐらいで,お1人の方が「赤牛」でした。
熊本県の阿蘇地方で,牛の色は何色が思い浮かびますか?と聞きますと,ほとんどの人が「赤牛」です。また,天草で聞きますと殆どの人が「黒牛」です。阿蘇の牧野に放牧されている牛はほとんどがあか牛です。天草地方では、以前農耕用に黒牛を飼っていたのです。熊本市周辺では「あか牛」,「黒牛」,「白黒のホルスタイン」がそれぞれ3分の1くらいです。この牛の色も小さい頃からいつも見ていた牛が,自然と自分の頭の中にインプットされ、「牛の色は○○」と刷り込まれているのです。
もう一つ聞きます。「カラス」について,いいイメージを持っていますか?または,悪いイメージを持っていますか?二者択一で挙手していただきたいと思います。
カラスについていいイメージを持っていらっしゃる方は?ゼロですね。
悪いイメージが浮かぶ方は?(かなりの人が挙手)だいぶ,いらっしゃいますね。私は熊本の農家の生まれで,田んぼによく行っていました。田んぼにカラスがいっぱい舞い降りていると,「今日は縁起が悪い」とよく言っておりました。
こちらでも,カラスは縁起が悪いということを聞いたことがありますか?カラスの色「黒=不吉」。こういったものが,私たちの長年の生活習慣や慣習の中で自然と刷り込まれているのです。この刷り込みに,マイナスイメージが加わると偏見が生まれます。その偏見が差別心を生みます。その差別心が,差別的行動につながります。私たちの心の中にある差別心のほとんどは,その人が持っている固定観念にマイナスイメージが加わった場合に生じてくるものだと思います。これまで「あたりまえ」と思っていたことが本当にそうなのかを立ち止まって見つめ直してみることはとても大切なことだと思います。
もう一つあります。知らないことに対して、無知の状態に、間違った情報が入って来ると,それが自分の頭の中で間違った情報ではなく,それを真実として認識してしまう場合があることです。そこに、マイナスイメージが加わると、それが偏見や差別につながります。同和問題,ハンセン病問題にも同じことがいえます。
私はハンセン病問題について,何も知りませんでした。そこへ父や母、周りの人からハンセン病というのは,うつる病気,怖い病気と言われてきて,「ハンセン病は怖い病気だ」とずっと思いこんでいました。ハンセン病についてよく学習すると,今のように衛生状態が良くて栄養状態がいい所では,感染する確率はゼロに等しいそうですね。そして,「プロミン」という新しく開発された治療薬を服用すれば治癒できるという時代でしたが,国や地方公共団体はハンセン病についての啓発をしませんでした。隔離政策をとっていました。それでハンセン病は,「怖い病気」だとずっと思い込まれてきました。
同和問題について何も知らない時に、「遊んではダメ」と言われると,「あそこは自分たちとは違うところだ」と認識してしまい、それが差別につながっていくということです。
ですから,私たちは「物事を正しく学び,正しく理解し,正しく判断し,そして相手の立場に立って行動する」ことが大切であり,これが人権問題の解決には一番大事なことだと私は思っています。
更に大事なことは,学んだことを何らかの形で行動に移すことです。行動に移さなければ世の中は変わりません。人権問題は解決しません。自分にできることを行動に移すことです。そして自分の心なかにある差別心と向き合うことだと思います。
『一度きりのお子様ランチ』をご覧ください。これは,同和問題や人権問題とは関係ありませんが,学習したことをもとに、こうした方がよかろうととっさに判断してとった行動です。
一度きりのお子様ランチ ある日,若い夫婦が二人でレストランに入りました。 店員はその夫婦を二人がけのテーブルに案内し,メニューを渡しました。 「Aセット一つと,Bセット一つ。」 店員が注文を聞きその場を離れようとしたその時,夫婦はしばし顔を見合わせ,「それとお子様ランチを一つ頂けますか?」と言いました。 店員は驚きました。なぜなら,そのレストランの規則で,お子様ランチを提供できるのは小学生までと決まっているからです。 店員は,「お客様,誠に申し訳ございませんが,お子様ランチは小学生のお子様までと決まっておりますので,ご注文はいただけないのですが...」と丁重に断りました。すると,その夫婦はとても悲しそうな顔をしたので,店員は事情を聞いてみました。 「実は…」と女性が話し始めました。 「今日は,天国へ旅立った私たちの娘の誕生日なんです。私の体が弱かったせいで,娘は最初の誕生日を迎えることも出来ませんでした。娘が私のおなかの中にいる時に『三人でこのレストランでお子様ランチを食べようね』って話していたんですが,それも果たせませんでした。子どもを亡くしてから,しばらくは何もする気力もなく,最近やっと落ち着いて,亡き娘にここの遊園地を見せて,三人で食事をしようと思ったものですから…」 店員は話を聞き終えた後,少し何かを考えていた様子でしたが「かしこまりました。」と答えました。 そして,その夫婦を二人掛けのテーブルから,四人掛けの広いテーブルに案内しました。さらに,「お子様はこちらに」と,夫婦の間に子ども用のイスを用意しました。 しばらくして,「お客様,大変お待たせいたしました。ご注文のお子様ランチをお持ちいたしました。では,ゆっくりと食事をお楽しみください。」 店員は笑顔でそう言ってその場を去りました。 この夫婦から後日届いた感謝の手紙にはこう書かれていました。 「お子様ランチを食べながら,涙が止まりませんでした。まるで娘が生きているように,家族の団らんを味わいました。こんな体験をさせて頂くとは,夢にも思っていませんでした。もう,涙を拭いて,生きていきます。また来年も再来年も,娘を連れてこの遊園地に来ます。そしてきっと,この子の妹か弟かを連れて行きます。 |
このウエイトレスは,自分で相手の立場に立って判断して,こうしたほうがよかろうと店のルールにはないことをしました。もちろん,上司の方と相談されたと思います。このように学習した成果を生かして行動する,行動しなければ人権問題は解決しません。
皆さん方も家庭や職場,地域などで,いろいろ人権問題について話し合っておられることと思います。人権・同和問題解消のため、自分にできる行動を起こしましょう。
12.自分にできることから
最後に,『論語』をご覧ください。
「論語 衛靈公第十五 412」 子貢問うて曰く,一言にして以て身を終うるまで之を行うべき者有りや。 子曰わく,其れ恕か。己の欲せざる所は,人に施すこと勿れ。 |
この意味は,
子貢とは、孔子の一番弟子です。その子貢が孔子に尋ねました。
「先生からお教えいただく一語を心にとめて生きていけば、生涯、人としての道を過たずに生きていけるという言葉がありましょうか。あったら教えてください」
孔子が答えました。
「その言葉は恕だ」と教えました。付け加えて「自分の望まないことは人にしないことだ」と諭したと言われています。
「恕」とは、相手の身になって思い・語り・行動することができるようになることだと訳されています。
私はこの「恕」の精神が人権尊重の精神だと思います。「人権文化が根付いた人権尊重社会の実現」に向け,皆様が「恕」の精神を持って,先頭に立ってご活躍されますことを祈念申し上げ,本日の話を終わります。ご清聴ありがとうございました。